はじめに
私たちの鶴見教会の歴史は、アトンメントのフランシスコ会(以下アトンメント会)の来日(1948年)からの歴史と切り離しては話せません。会の誕生から一世紀という、フランシスコ会の中でも若いこの会の特徴が、そのまま教会の姿にも反映しています。
アトンメントのフランシスコ会の歴史
アトンメント会の創立者ポール・ワトソンは米国の聖公会の牧師でしたが、若い頃から説教修道会を設立する夢を持っていました。そしてまた彼は、キリストの十字架の犠牲による人類の罪の贖い(あがない)を信仰の原点と捉え、同時に清貧な修道生活と布教で知られる中世の聖人、アシジのフランシスコが体現したキリストの精神を現代にも実現したいと考えました。
彼は、修道会の名前をさがすために聖書を開いたとき、ローマ書5章11節の中にある「アトンメント」という言葉に行き当たりました。「アトンメント」とは「和解」と訳されますが、at・one・mentと綴りを分けて語源を探れば、「ひとつになる」「一致」の意味を持つ言葉でした。彼はこの「アトンメント」の言葉に神と人との和解・一致、すなわち主キリストが十字架を通じて贖いの犠牲となられたことの結果を見出したのでした。
そして1898年、彼は彼の考えに共感して立ち上がったルレーナ・ホワイト修道女(マザー・ルレーナ)を共同創立者としてニューヨーク郊外で「アトンメントのフランシスコ会」を創立し、聖ペトロの巌の上に建てることを宣言、キリスト教の一致と自らをカトリックの教義のもとに置くことを希望しました。1909年、「アトンメントのフランシスコ会」と数名の信徒は、教皇ピオ10世にローマ・カトリック教会への受け入れを願い出て受理され、カトリックの修道会としてその活動の輪を広げていったのです。
 
ポール・ワトソン師
鶴見教会の黎明期
アトンメント会の創立者ポール・ワトソン神父は、かねてからアジア宣教の拠点として日本での宣教活動を構想していました。しかし、日中戦争、第二次世界大戦の勃発によって、存命中にその夢はかないませんでした。
戦争終結後しばらくして、カナダで活動していた日本人、勝野巌神父は、アトンメント会の修道士が日本で働く可能性について日本国内の修道会に問い合わせ、そのための必要書類を会のラファエル・グランデ総長に提出しました。
グランデ総長は日本宣教の代表者として、アルフォンサス・ホーバン神父を1948年、日本に派遣します。ホーバン神父はカトリック大阪教区、横浜教区との折衝を経て、グランデ総長の許可により、横浜教区での司牧を決断し、その旨を横浜教区長に願い出て、横浜教区長から、川崎・鶴見地区での宣教活動が認められました。
こうして、現在教会がある横浜市鶴見区東寺尾に、アトンメント会の修道院が開かれ、併設する教会である鶴見教会は産声を上げました。
聖母マリア奉献の祝日の翌日であるこの年の11月22日、ホーバン神父が初めてのミサを捧げると、やがてそれを聞いた数名の信者がミサに集まってくるようになりました。
翌1949年、修道会活動のために7名の神父、修道士が米国から派遣されてきました。その中には日本での会の活動の活路を開いた勝野巌神父や、やはり日本人の佐藤嘉雄神父の姿もありました。当時は物資も乏しい時代でしたが、古着を配る等の慈善活動もしながら宣教を始めます。川崎・鶴見の小教区にはアトンメント会の来日前に、「小さき花のテレジア」新子安教会があり、その信者の一部が鶴見教会に移籍しました。
1950年には、バレンタイン神父やエリック神父を含む宣教師4名も派遣されてきました。こうして本格的な日本での活動が軌道に乗ってきました。この時期、アトンメント会は鶴見教会の兄弟である、いくつかの教会を立ち上げます。
新子安教会(*)(1949)、津久井教会(*)、貝塚教会(1950)、強羅教会、秦野教会(1951)、
((*)印は他の会の教会を引き継ぐ)
丘の上の教会
1951年、鶴見教会は一旦引越しをします。ここは勝野神父が小教区教会建設のため購入した土地で、鶴見区北台の丘の上にありました。横浜教区長脇田司教の司式で献堂されたこの新鶴見教会は、この時以来聖ヨゼフを守護の聖人とすることとなります。丘の上の教会の初代主任司祭は勝野神父が勤めました。
この同じ土地に翌1952年、アトンメント会は聖ヨゼフ学園を開校させました。その後同学園は中学校、高等学校を増設し、鶴見教会が居なくなった後もここで活動を続けています。
ここでの鶴見教会の活動は1970年まで続きましたが、この間にアトンメント会が創設した鶴見教会の兄弟は、次の教会です。
菊名教会(1957)、中原教会(1958)、浅田教会(1960)、鹿島田教会(1961)
 
丘の上の教会
現在の鶴見教会
鶴見教会の信徒はアトンメント会の来日以来増え続け、また東寺尾の修道院も老朽化したことから、アトンメント会は修道院と新しい教会とを同時に建設する決意をします。こうして、勝野神父が委員長となって新教会の建築準備が進み、1970年、最初に修道会があった場所に現在の教会が完成しました。鉄筋コンクリート造りのこの教会の大聖堂は、屋根部からの大胆な採光を取り入れ、また多目的化を図って座席はすべて移動できる椅子席だけとしました。私たち信徒は椅子を移動または増設させた状態で、毎年バザーやチャリティ・コンサートにも大聖堂を使っています。  
新しい鶴見教会
この頃の主任司祭は初代就任に続いて1976〜80に就任した佐藤神父を挟み、ニューエル神父(1969〜71)、ヘンリー神父(1971〜76)、パシフィクス神父(1980〜87)、プロザット神父(1987〜89)と、外国人神父が続きます。この間日本の国も急速に生活習慣の欧米化や人的交流の国際化を果たし、大きく変化しました。
そしてアトンメント会は来日以来日本人の聖職志願者を受け入れ、育てていきましたが、1989年以降は以下の日本のアトンメント会で育った神父が主任司祭を務めて今日に至っています。
平松神父(1989〜95、2004〜2008)、白木神父(1995〜2000)、藤原神父(2000〜2004、2008〜現在)
またアトンメント会の来日と共に鶴見教会と歩んできた勝野神父は、2002年にその生涯を閉じ帰天しました。
鶴見教会とエキュメニズムについて
アトンメント会は創立者ポール・ワトソン神父が聖公会からカトリックに改宗した経緯から、キリスト教の一致(エキュメニズム)のための活動を行ってきました。日本ではアトンメント会の来日以来エキュメニズム活動を開始しています。日本のアトンメント会で育ち、後に鶴見教会の主任司祭になった3人の日本人司祭はいずれも横浜教区でのエキュメニズムの運動に関わってきました。
鶴見教会では近隣の日本キリスト教会鶴見教会と、毎年1月のキリスト教一致祈祷週間に合同祈祷集会を開くなどの活動を行っています。

ページトップへ
カトリック鶴見教会公式ホームページトップに戻る